庵野秀明展が継承しようとしているもの Part3

「マクロス」以後、庵野は増尾昭一の誘いを受けてフリーアニメーターを集めスタジオ・グラビトンを設立。「メガゾーン23」などがこの時期の仕事にあたる。

※大阪展では第3章の展示順が多少前後しており、予備知識なしでの歴史の把握が少々難しかった。
実際の時系列に沿うならマクロス→メガゾーン23ほかグラビトン時代→ナウシカ・火垂るの墓→王立→トップ→ナディア→エヴァとなるが、ここでは展示順に則る。

業界の趨勢を見据え、自分に何ができるかについての意識はこの当時からあったと思われるが、当のグラビトンが設立された当時は「うる星やつら」に端を発するアニメーターの暴走がもてはやされた時期にあたり、参加した作品も「超時空騎団サザンクロス」「ドリームハンター麗夢」「プロジェクトA子」などロリコンものの極北に偏っている。わけても「プロジェクトA子」に対して宮崎駿が示した同スタッフへの嫌悪感は凄まじく、「ラピュタ」制作中のアニメ誌むけ記者会見の場で

セーラー服が機関銃撃って、走り回ってる様なもの作ったら絶対ダメなんです。絶対ダメなんです。
2万人の読者が、そのうちの4割が買うか5割が買うかという事であって、そういう人達が、押井守とか宮崎駿が作らないものを作る、なんて言ってるのを聞くとね、腹が立つだけなんですけれども、志が低すぎると思うんです。

Wikipedia「プロジェクトA子」より引用

と口を極めて批判している。
たしかにこの当時、宮崎駿の「風の谷のナウシカ」、押井守の「天使のたまご」と立て続けにメッセージ性の強い作品が発表されたことでアニメ界全体に背伸びの風潮が見られたのは事実だが「押井・宮崎さんに絶対作れないもの」「頭が痛くならないもの」と名指しで挑発してまで世に出したものが「プロジェクトA子」では罵倒も同然の批判を浴びるのもやむなしであろうし、なによりグラビトン設立者たる庵野自身が「ナウシカ」「天たま」両方に参加していたことがとてつもない皮肉に思える。

庵野秀明展-15
過酷を極める「ナウシカ」作業現場での落書き(と他スタッフからのツッコミ)の数々
庵野秀明展-16
宮崎駿が庵野に宛てた「作画のしかた」のメモにはごく初歩的なことしか書かれていない。庵野はその初歩すら知らずにいた

板野一郎の下での修行後、庵野は宮崎駿の門を叩く。
「宇宙人が来た」と面白がった宮崎が庵野にいきなり巨神兵の原画を任せたエピソードは有名だが、アニメーターとしてのセンスは抜群にもかかわらずプロとしての基本は文字どおりイロハのイの字も習得していない不思議さまで含めての面白さ、何より庵野が秘めている将来性に目をつけたがゆえの採用だったのだろう。

作画のしかた
○全体のリンカクで原画のあたりをとる
 動きとしては1つのアクションが2.0とか3.0(秒)のうごきになるかうつす
○それで、まずシートをつくる
 次に、3K中5単位に中ワリのあたりをつくり、細部の原画に入ること
○ぶっつけでやると絶対に終らない

上記写真より

ちなみに鈴木敏夫はこのときの庵野を「道場破り」と評している。

「ラッタルの数まで実物に合わせて描き込んだ満艦飾の重巡摩耶が本番では真っ黒に塗りつぶされていた」とは前述の巨神兵とセットで語られる「火垂るの墓」での逸話。
本展ではその摩耶の原画こそ展示されていないが、同シーンで背景を彩る花火のリスマスク原画とそのタイミング計算用ゲージ、タイムシートを見ることができる。動画チェックで試写室に歓声が上がり、高畑勲に褒められたと庵野が自慢するこの原画は撮影禁止のうえ図録にも掲載されていないので、会場でじっくりと目に焼き付けてほしい。

「ナウシカ」「火垂るの墓」の現場を経験したことで「宮さんとパクさんは全部わかった」と豪語する庵野。
のこの道場破りでの経験が「王立」「トップ」「ナディア」で発揮されることになる。

「王立」での庵野の肩書きは「スペシャルエフェクトアーティスト」。この肩書きについて庵野は

「アーティストで名づけたらアーティストだろうという軽い気持ちでつけたんです。エフェクトにしても、当時流行していたSFXという言い方が嫌で、エフェクトにしてやれと。自分が嫌なものを肩書にしたんです。こんなに後々まで残るとは思いませんでした(笑)」

マイナビニュース「庵野秀明監督「アニメーターの技術は、今でも『オネアミスの翼』が最高峰」と断言 – 自らのキャリアを語る」

と世間への嫌がらせである旨語っているが、実質的に本作はその世間へ庵野秀明をアーティストとして売り込むための映画であったこともまた事実である。

庵野秀明展-61
ナディア36話「万能戦艦 N – ノーチラス号」プロット。進捗が滞るとガンダムや仮面ライダーの落書きが入るようだ
庵野秀明展-80
各話台本とプロット・企画書、ノーチラスほかメカニックのデザインラフなど

ナディア関連の展示は本展ではごくわずかであるが、山口展と全く同じ日程で「ふしぎの海のナディア展」が宇部市・ときわ湖水ホールで開催されていた。大阪・東京などでの開催を未見の人はこの機会にハシゴしてみては如何だろうか…と簡単におすすめできないぐらい庵野展もナディア展も物量がえげつなかったわけだが、宇部の町とあわせて庵野秀明を骨の髄まで堪能する至福の時は他では味わえない。

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エヴァのセクション入り口を飾るNERVロゴ(TV版)入りのバレた壁@東京展

TV版エヴァ~EoEセクションには各種メディアで何度も取り上げられ今やお馴染みの感さえある設定画や企画書がスペースの許す限り展示されている。
もはや親の顔より見たと言ってもいいぐらいだが、それらの原本、さらには肉筆原本となれば見入ってしまうのも道理。

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庵野の監修下、神村氏の手による各話サブタイトルのタイポグラフィで彩られた壁
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親の顔より見た第壱話絵コンテ

また「庵野秀明の仕事」という括りで一堂に会することでエヴァの作品世界を構築する要素の隅々まで庵野の頭の中がぶちまけられていたのかを再確認でき、デザイナーとしての非凡さも改めてじっくり味わえる展示構成だったと言える。

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ゼーレのモノリスをイメージした柱。裏側にはエヴァ初号機の巨大なカラー設定画が掲げられている@東京展
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摩砂雪の罰ゲームと名高いEoE水中表現の原画も!
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第3章『挑戦、或いは逃避』はテレビ版エヴァ・EoE以後の実写作品と本人による客演、カラー設立~新劇場版までを振り返る。
アニメに比べて実写映画は中間制作物の物量自体が比較的少ないのもあって「ラブ&ポップ」「式日」「キューティーハニー」あたりの展示スペースは決して大きくはないものの、企画書やプロットメモにびっしりと書き込まれたアイデアからは様々な情報が読み取れる。

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突然のブルセラ。
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客演作品の台本や「ローレライ」のコンセプトイラストなど

三鷹の森ジブリ美術館で公開された「空想の機械達の中の破壊の発明」画コンテ。宮崎駿から依頼を受け、託されたキーワードを元に制作された。火薬の発明から爆弾、ミサイル、殺人光線、核兵器、そして巨神兵…とエスカレートしてゆく兵器開発の歴史をたどるショートアニメだが、雨あられと降り注ぐ砲弾と標的の佇まいは「へたな鉄砲も数うちゃあたる!」の雰囲気そのまま。

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「空想の機械達の中の破壊の発明」画コンテ。大阪展では展示なし

東京展会場内には休憩スペースが2カ所設けられていた。のちに「庵野秀明スキゾ・エヴァンゲリオン」として出版される記事が掲載されたクイックジャパンやcutなど庵野の特集が組まれた雑誌などを見ることができる。

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カラー設立10周年記念展で掲示された寄せ書きパネルも

2012年7月、庵野は自らが館長となり「特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」を開催する。
この開催にいたるそもそものきっかけを原口智生は同展図録への寄稿で次のように語っている。

 それで、確か4年ほど前だったと思うのですが、庵野秀明さんたちと呑む機会があって、庵野さんとはそれまで何度か仕事をしていましたし、僕のコレクションにも興味を持っていたようです。その時に、僕が「特撮映画で使用したミニチュアを展示保存出来るような美術館みたいなものがあったらいいですね」みたいなことを喋ったんです。その時は、あくまで思いつきであって、本気で考えてもいませんでした。でも、庵野さんは「それは、いいですね!」と、すごく乗り気だったことを憶えています。

 それから、しばらく経ってからお会いした時に、「美術館のような財団法人にしようとすると、何億円もお金がかかってしまうので、ちょっと無理のようです」と。一瞬、何の話かわかりませんでした(笑)。「でも、企画展レベルなら実現できるかもしれません」と、庵野さんがさらに語るに至って、この人は、僕の思い付き話をかなり真面目に受け止めくださっていたんだなあと思いました。

特撮博物館・図録「庵野秀明監督の執念が支えた復元作業」/原口智生(原文ママ)
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巨神兵・顔アップ用実物プロップ

この原口との会話のあと庵野が鈴木敏夫にかけあい、日テレを巻き込んだ東京現代美術館での展示に至るいきさつは鈴木敏夫自身があちこちで語っているとおりだが、特撮の分野に限らずクリエイティブな現場で日々失われつつある技術の保存と継承、そして本展第5章の副題でもある「報恩」を庵野がより現実的に考えはじめる大きなきっかけとなる。
報恩の結実のひとつは言うまでもなく2016年「シン・ゴジラ」だ。

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ローポリゴンで出力された形状検討用造形もこれはこれで興味深い

「シン・ゴジラ」で庵野はまず前田真宏によるゴジラのコンセプトアートをたたき台にした雛形の造形を竹谷隆之に依頼、この造形の3Dスキャンを元にフルCGゴジラを製作した。
一見回り道ともとれる工程だが、実物の雛形によってモデリングの方向性が迷走せず、少ない予算で他の邦画CGと一線を画するリアリティの演出に成功している。

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折り紙は劇中で使用されたヒト形以外にも同じく三谷純氏が考案したDNAを模したような形状も検討されたようだ
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古くからあるミニチュア特撮と最先端の3DCGIの融合、この技法こそまさに技術の継承。
そしてこの技法がついにシン・エヴァンゲリオン制作の道筋をつける大きなきっかけとなる。

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「Q」制作時すでに行き詰まりを感じていた庵野は第3村のレイアウト検討用ミニチュアを実際に作り、これを用いてシン・ゴジラ同様に莫大な量のプリヴィズを作成、最良のカットを模索する手法を採用した。
これがもたらした効果はシンエヴァ本編に一目瞭然である。

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第3村ミニチュアはスモールワールドTOKYOでの展示についてのエントリで長々と語っているのでそちらをご覧いただきたい。

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第3村周辺のルックに関する指示。崖の「自然でない感じ」との対比のため山の高低にメリハリを付けている
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ケンスケの父の墓がある丘。画面の外へ世界が連続している描写不足への修正指示が多い

「君の名は。」の大ヒット以後、大作アニメ映画のIMAXほか特殊上映形態が一般化。シンエヴァもこの潮流に倣ってIMAX・4DX・Dolby Cinemaフォーマットが用意されたが、こうして綿密に設計された画面と音響、それらの情報量が持つポテンシャルは(もともと「Q」の時点で画角をビスタサイズからシネスコサイズにスケールアップしていたこともあって)IMAX上映で遺憾なく発揮されていた。

何一つ現実に存在していないところから生み出されるアニメ作品の製作はスタッフひとりひとりがその「実在」を信じることから始まる。第3村のミニチュアはそういう意味で庵野だけでなくスタッフ全員にとって虚構を信じるための大きな手助けとなったに違いない。

庵野秀明展-75

「巨神兵」「シン・ゴジラ」を通じて、遺産を保護するだけでなくその技術を具体的に継承することこそ特撮の命脈をつなぐため最も重要であると再認識した庵野は「シン・ウルトラマン」「シン・仮面ライダー」の製作を相次いで発表。ウルトラマン全39話を全5章に再解釈し、SF――空想特撮としての縦糸を一本通すことで一つの物語として解体再構築した「シン・ウルトラマン」、初期10話が持つホラームービーのテイストを大切にし、現場の事情で誕生した一文字隼人と現場の事情で退場した緑川ルリ子双方を最大限に活用して本郷猛の内面を鋭く抉った「シン・仮面ライダー」はどちらも新旧ファンの大きな支持を得ることに成功した。

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バルタン星人の生みの親として知られる飯島敏宏、ショッカー怪人のデザイナー高橋章、「シン・ウルトラマン」でもスペシウム光線をはじめとする光学作画を担当した飯塚定雄らが両作品の製作中から公開中に次々とこの世を去った。ミニチュアや技術だけでなくオリジナル当時の生き証人さえもがいなくなってしまう、今まさにギリギリのタイミングであると彼らの訃報で改めて思い知らされる。

庵野秀明展-78

「特撮博物館」で集められたミニチュアは、現在修復中のものも含めて福島県須賀川市の「須賀川特撮アーカイブセンター」に収蔵されている。この施設も庵野が理事長を務めるアニメ特撮アーカイブ機構(ATAC)の活動が実を結んだ一つだ。

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未だにソフト化されていないメイキング「巨神兵が東京に現われるまで」もここで鑑賞可能のようだ

東京展ではこのセクションに「日本海大海戦」の撮影で使用された戦艦三笠のミニチュアの復元作業がビデオ展示されていた。この三笠の実物も展示候補に挙がっていたのだが搬送用トラックをもう1台調達せねばならないスケールだったため断念された(ATAC三好氏・談)。

文化の継承にはもちろん充分な資金が欠かせない。いくら志が高くとも先立つものがなくては絵に描いた餅でしかない。
しかし必ずしもカネさえあれば解決するものではない。いくら物質面の保存が進もうとその文化を愛し、学び、世代を超えて共有したいと願う情熱が伴わなければ意味がない。

本展には庵野の情熱が隅々まで脈打っている。むしろこの情熱こそが本展のメイン展示であり、本展を通して継承したい本質なんだろう。

庵野秀明「作品」展ではない。「庵野秀明」展なのだ。
本展図録に寄稿した氷川竜介はTwitter上でこう述べる。

プロとしてのキャリアのごく初期から庵野を取材してきた氷川竜介を以てしても、いや氷川竜介だからこそ「属人性に依拠しない」と前置きせねばならないほど庵野秀明というクリエイターを属人性抜きで論評するのは難しい。その事実は庵野とて自覚しているに違いない。
だからこそ今、自らのネームバリューを最大限に活用して失われつつある文化とそれを支え続けた情熱の継承に役立てたいと考えた。
鈴木敏夫の生き様に教わったのだろう、目的のためなら自分を切り売りできるのがプロデューサーという生き物なのだと。

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