※手元のメモを見つつ思い出しながら書いているので、随時修正or追記が入ります。悪しからず。誤記に関してご指摘いただいた読者の方、ありがとうございます。
第1部はWF誕生以前のガレージキット黎明期からの流れを振り返る…のだが、さしもの浅井・寒河江氏といえどもその当時のエピソードとなると伝聞レベルでしかない。
「会場の中で誰かWF前史語れるぞって方います?」と問いかける浅井氏に対して挙手したのは…
ムッシュBOME。
「だからもうアンタ(壇上に)上がれ!」
というわけで黎明期ガレージキットシーンの生き証人として呼ばれた佐藤てんちょ・首藤氏と共に当時のHJ誌面をめくりながらその歩みを回顧していく流れに。
それでもこの当時からほぼ皆勤賞でWFに参加しているというツワモノも会場には散見され、気合が窺える。
中学生だった浅井氏はそのころ海洋堂から発売された某FSSキャラのフィギュアを買いに自転車で片道1時間かけて出かけたのだが、帰って開けてみると1/15のフィギュアの頭に直径5?oもの気泡が見事に乗っかっていた。
仕方なしにもう一度戻って「兄ちゃん(宮脇氏)、これ顔にでっかい気泡あるんやけど…」と交換を願い出る真紀少年にかけられた一言は
「はっはっは!ハズレや!」
であったという。良くも悪くも海洋堂の「大阪のあきんど気質」の片鱗はすでにこの時点で見られたようだ。ハズレやったらしゃーないもんなあ。もっとも2往復の道のり、4時間の時間、数千円のお小遣いを失ってなおへこたれずに立ち向かっていけるのは「同じ2000円あれば1/60ザクのプラモが買えるのになんでか知らんけど出来としてもどうやねんって感じのサデスパー買ってた子供」だった真紀少年なればこそだったのだろうが。
正直、このへんの話になると殆どがチンプンカンプンで、せいぜいついていけるキーワードと言えば「コミックボンボンでの速水仁司氏や小田雅弘氏、安井尚志氏たちの活躍」、実物の姿を辛うじて覚えている海洋堂製バイオハンターシルバの話題などといったところ。
またこの頃のWFの無法地帯ぶりを象徴する逸話としてよく引き合いに出される「会場のトイレに余ったレジンを流してこっぴどく叱られた」話は、B液が下水と反応してネバネバになり「ホントに大変やった(てんちょ談)」という。そりゃ追い出されるわ…。
いわゆる「ディーラーダッシュ」も第2~3回当時からすでに見受けられた。現在のようなネット環境などなかった時代ならそれこそ片っ端から「とりあえず買っとけ」な雰囲気が蔓延するのは当然のことだったんだろう。
佐「っちゅーかオレもダッシュしてたよ」
一同「主催者ダッシュですやん!!」
当時の誌面を飾っていたイラストに話が及ぶと突然浅井氏が朝霧陽子(中央)に食いつく。
「小学校の頃に初めて紙粘土で作ったのが朝霧陽子だったんですよ。んでこれを友達に見られて。
半裸の女の子の人形を作ってる姿を見られるっていうのは小学生にとってちょっと致命的じゃないですか。
せやから翌日ガッコ行ったら机にでっかく『H人形』って書かれてて」
…考えようによってはエロ本を見つけられるより致命的かも知れない。
ところで第5回当時(’88年)大芸大生だった寒河江氏は海洋堂への造形作品の持ち込みを行っていたという。当時を振り返り寒河江氏は自身の原点として「怪獣映画のスタッフにはなれないけど、怪獣の造形師にならなれるかも知れないという雰囲気が周囲にもあった」ことについて言及していた。
オリジナル同人マンガという分野で活動しているオレにとって実は寒河江氏や浅井氏のような個人ディーラー、またはそれこそ海洋堂や当時のゼネプロ、ボークスのようなメーカーでさえ「ずっと版権ものガレージキットを発表し続けて活動を重ねる」モチベーションの出所というものがかねてからの疑問だったりしたのだが、寒河江氏のこの言葉でどこかミッシングリンクがつながったような気がした。これは個人的になかなか小さくない収穫だったように思う。
またこのような草創期からガレージキットに携わってきた人々ほど『ガレージキット』という言葉の指し示す範囲、定義について考えあぐねているようだということもわかった。
これはどうやら当時からすでに「高いクオリティの造形レプリカを提供する」ゼネプロ製品と「クオリティ如何についてはモデラーの手に委ねる」海洋堂製品の方向性、もっと言うなら根底に根ざす精神性が異なっており、しかしそれでいながらそのどちらも同じ「ガレージキット」と呼びならわされていたことによってますます「ガレージキット」の定義の曖昧化が進んでいったのではと思われる。
この「ガレージキットってなんだろう」というテーマは第2部、第3部にも共通して出てくるのだが、それについてはまたのちほど。
その後’91年ごろの「鮎川まどか事件」、スーツ姿の小学館Gメンが無版権キットを見回った「パトレイバー大名行列」、B-CLUB誌上に掲載された『版権とはなんぞや?』の記事とそれに伴うWFバッシングへの流れ、後のJAF-CONにつながるF-CONの誕生などを駆け足で追いかけ、’92年のWF終了宣言につながる。
ガイドブックに寄せられた、かのナイトオブゴールドで当時最も著名な人物の一人だった生嶋毅彦氏(ワークショップキャスト)のコメントによれば
オープン前に会場内のガラス張り本部室内で、ゼネプロと海洋堂メンバーがなにやら真顔でお話中。(中略)と、いきなりのアナウンス。史上名高い武田氏の怒り声によるWF終了宣言。
つまりウチにとっては、初参加イコール最終回という展開に!あのなぁー!
「できれば今後は海洋堂に引き継いでもらいたい、とアナウンスされたことで、閉会直後からゼネプロ・海洋堂にはディーラーは言うに及ばずメーカーからも『続けてください!』『引き継いでください!』『どうしてやらないんですか!』と半ばケンカ腰の嘆願が殺到した(てんちょ談)」
かくして右往左往する個人ディーラーやメーカーの姿に、すでに2年間ボークスで働き退社したあとだった浅井氏は
「え?何事?」って感じで、むしろ爆笑してました。台風の時の小学生のようなものでしょうか。
…だったそうだ。同じく寒河江氏も「WFという場そのものに執着はなかったので混乱することは特になかった」らしい。
ゼネプロがWFから手を引いた一因には、どうも前述した「ゼネプロ製品の方向性がガレージキットと本来的にカチ合う」から、というところもあったのかも知れない。
そして海洋堂は海洋堂で、WF引き継ぎに関して「平素は『スーパーサブ』として館長(宮脇修氏)の面白がることをしたいという動機のもとに行動することの多かった専務が珍しく主導的に自分が面白いからと賛成する姿勢であったのに対し反対派の白井武志氏との対立があった(ムッシュBOME談)」そうだが、最終的には専務が押し切った形になったという。
ところでこのWF引き継ぎには「実はボークス社長も名乗りを上げていた」と浅井氏は語る。
プチ館長と呼ばれるほど海洋堂にシンパシーを抱いていたボークス社長・重田氏はその言動までも館長に影響されていたようで、ボークス入社にあたって浅井氏が社長に面会した時にも、先に”本家”館長の「このガレージキットという名の大海原にやなぁ!」という言葉を聞いていたところへ「このガレージキットという名の大宇宙に!!」と演説され「話のスケールはデカしてあるけどパクってるぶん人としてのスケール小っさ!」と驚き呆れたそうだ…(;´Д`)
そんなところで第1部は終了。全体的に懐古的な雰囲気ではあったが、当時の「熱さ」があったからこそ現在の流れの礎が生まれたのだなと納得させられるところが大きく、飽きるどころかもっと当時のエピソードを聞かせて欲しいぐらいだった。
ちなみに第1部で最もウケたのは冒頭の浅井氏の「僕ねえ、あ○のさんのこと大ッ△いなんですよ!!」 と自ら伏せ字入りでぶっちゃけたあたりだろうか。まあツカミとしては極上のエサではあったが…「敵対イベントちゃうから(;´Д`)」と抑えに回ってくれる寒河江氏がいなければ下手をすると終始あのままのノリで乗り切っていたかも知れないと考えるとうっすらと恐ろしいものがある。
ちなみに写真は佐藤てんちょのお土産、当時生産されたムッシュBOME作のDAICONⅢの女の子。数個が会場に手渡しで回された。当時のプラキャストということでバリが手に刺さるように痛い。
出来は確かに今となっては見劣りすると言わざるを得ないが、それでも当時の熱さは十二分に伝わる逸品だった。