前編・中編を通してシンエヴァ第3村ミニチュアの作り込みの意義について語ってきましたが、後編では作り込まれていない箇所や何故作り込んだのか真意をはかりかねる箇所にスポットを当てるとともに、庵野自身、またスタッフの過去の発言を傍証に「第3村というキャラクター」を作り上げるのに何を必要としたのかを浮き彫りにしてみたいと思います。
何はともあれ次の仮設住宅街の写真を見てください。
立ち直りの兆しを見せたシンジがトウジと一緒にネコ車を押しながら歩くシーンなどで見える仮設住宅ですが、実質的な描写は屋根とその上に整然と並ぶソーラーパネルのみでした。
路地の幅員さえ現実に即していればそれ以上の作り込みは必要ないと割り切っていることがここから読み取れます。
ドキュメンタリー内で「仮設トイレって(二つ)並んでると思うんですよ」と言いながら仮設住宅街に置かれていた一つを移動させた先がここ。
現実的に考えると仮設トイレは仮設住宅のレーンごとに置かれていてもよさそうですが、そこで芝居する予定はないのでここへ場所を移した、ということでしょうか。
ただし仮設住宅街に全くディテールがないのかと言うとそんなことはありません。というかこの路地にのみディテールが与えられています。
エヴァという作品のカメラワークは大部分がガチガチに決め込んだレイアウトのFIXで、FOLLOWは多用されない傾向にあります。従って仮設住宅そばの芝居が要求される際にはこの1箇所で事足りるんですね。
ちょっと視点を上げて見下ろしてみるとすぐ隣の路地はガラガラ。
カメラが向くであろう側から見れば必要充分なディテールは用意されています。影になる場所、見切れることが確定している場所を作り込んでも意味はありません。
村の真ん中を貫く道路についてもそれは同じ。時間が許す限り作り込んではいるけれど、作品に寄与しない自己満足だけの作り込みはしない。決して好き勝手に嬉しがって遊んでるわけじゃないことがご理解いただけるでしょうか。
頭で考えても限界があると思うんですよ。とにかく「そこに存在する」っていうのは大きいですからね。
『さようなら全てのエヴァンゲリオン ~庵野秀明の1214日~』なぜミニチュアでの撮影手法を選んだのかとの質問に対して
…まあ頭の中にはないよね…。
今回ミニチュアにしたからいろんなアイデアが足せるんで。
実際に見たら、いやこうじゃないよな、ってやっぱ分かる。感覚的にも理屈的にも。何が足りないかもその場ですぐ分かるし。頭の中(だけ)ではそうはいかないですよ、なかなか。
庵野:僕自身テレビのほうの「エヴァンゲリオン」をやる前とやる後で違ってるんですけど、それは自分がディレクションだけでなくプロデューサーも始めたからなんですよ。だからプロデューサーとディレクターを1人でやると調和をテーマにするしかないんですね(笑)。
まあ宮崎駿さんみたいに、プロデューサー(鈴木敏夫)が別個に、ずっといてくれるといいんですけど、僕の場合自分でやるしかなかったんで。
プロデューサーやると大人になるんですよ。
監督って子供のままいられるんですけど、プロデューサーは大人にならないとできないんで。だからプロデューサー始めてから僕は大人になっちゃいました。(中略)
庵野:ホントに、ディレクターだけは子供のままいられる――これはもう合法的な――いい商売です。
ずっと駄々こねてりゃいいですから、ディレクターは。もう「あれヤだ」「これヤだ」って(ゴネていれば)済むのがディレクターのいいところですよね、それみんな許すんで。松本:この間久しぶりにテレビでコントをやってくれって、やったんですけど、やっぱ楽でしたね。自分が自分勝手にできるのはやっぱ楽しいですね。番組全体のことなんか何にも考えてないから、好き勝手久しぶりにできたな…とは思いましたね。
庵野:ええ。その場合「俺だけ目立てばいい」で済みます。
Amazonビデオ『庵野秀明+松本人志 対談 前編』より
モデルでもなんでもないフツーのオッサンの裸見ちゃったような不快感体型
Twitter:山下いくと 上記エヴァ7シリーズ設定画に関するツイート内画像キャプションより
と思ってたのですがカントクいわく「関連商品売れないと困る」のでスタイル格好良くしていいそうです
このエントリを書いているのに前後して「シン・仮面ライダー」と庵野展の合同記者会見が開かれました。
朝日新聞朝刊にはその模様をライブ配信する旨あわせて全面広告が打たれました。
満面の笑みで1号ライダーのスーツに身を包んだ1985年当時の庵野の写真がでかでかとフィーチャーされ、その横には公式サイトにも公開されている所信表明がキャプションとしてつけられています。
今朝の新聞で東映さんがやらかしてくれましたけど(会場笑)、あれだと僕が…50年前の仮面ライダーの…なんて言えばいいのか、独占と言いますか、「僕の考えた仮面ライダー」を作るような印象を(与えてしまうと思って)、今朝東映さんに新聞見せられた時に怒っちゃったんですよ。
いや、そうじゃないんです。
あの、僕も見たいですけど――そういうものを――ただ、僕が見たいものではなくて、お客さん、観客の皆さんが「面白い!」と思ってくれる、そして「こりゃいいや!」と思ってもらえる作品にしていきたいと思います。
(全面広告には)僕の夢を云々って書いてありますけど、それよりは同じ頃に育っていた――今61(歳)なんですけど――そういう人たちに「ああこういう仮面ライダーもいいな」と、今見て思ってもらえるような作品を作っていきたいと思います。(中略)
もう一個「商売できるもの」を作ろうと、そうも思っています。
「シン・仮面ライダー対庵野秀明展」合同記者会見・最後のメッセージより
…まあ商売っ気をあんまりここで言うとアレなんでこの辺にしときますけど…僕だけが楽しいものにはしたくないんですね。みんなが――お金を出してくれる製作委員会の人たちも含めて「やってよかったね」と思ってもらえる、勿論スタッフ、キャストも、お客さんもそうですけど――それがあった上で(ようやく)自分自身が「これ面白かったな」と思えるんだと思います。
庵野:そういうのはまあ…なんて言うんですかね、僕の好みなんで、なんか垂れ流すように出てることもありますね。
あんまり入れすぎるとよくない、と堰き止めたりもしますけど、そこはコントロールしてるなと思いますね。(中略)
庵野:そういうのを出していい時と出しちゃいけない時が作品世界にはあると思うので。
なんて言うか、作品で描くものって「自分が描きたいと思うこと」と「今描かなければいけない・描くべきこと」と、あと「観客が望むであろうこと」と、出資者が「こうしてくれ」って言う(こと)、この4つの要素でできてると思うんですよね。
その中で「自分が描きたいこと」っていうのは自分で(優先度を)コントロールできるので。それ以外は自分のコントロール外じゃないですか。自分から出てくるものじゃなくて「こうしたほうが喜ぶんじゃないか」とか、やっぱり客観的なとこですよね。
特に出資者が言うことはもう絶対なので、まあこれは必ず守らなきゃいけない。お金出してくれる人が一番、まあ「上」ですから。
あと、作品の絶対命題は「元を取る」っていうことしか僕はないと思ってる。
評価も大事ですけど、それ以前に商業作品である以上は元を取るっていう。元を取るための確率はなるべく上げたいと。その中には観客が望むものとかですね、今描かなければいけないこととかそういうのも入ってくると思いますけど…まあ自分が描きたいことっていうのが一番最下層ですね。なんか「ついでに出せればいいや」ぐらいですね。松本:うん、隙を見て。
庵野:隙を見て「ここならちょっと出せるかな?」って時にちょちょっとこう、入れる。バレない程度にちょちょっとこう、混ぜてるくらいですね。
Amazonビデオ『庵野秀明+松本人志 対談 後編』より
エヴァっていう作品を構成している要素は4つあります。
シン・エヴァンゲリオン舞台挨拶でのコメント
まず第一に「ストーリー上必要なもの」。
次に「画として美しいもの」。
3番目に「自分の思い出とか心の中に残っているもの」。あと「スタッフが好きなもの」。この4つです。
僕の好みっていうのは4の次、5の次。一番最後です。
ここで無理したら体が壊れるとか、心が壊れるんじゃないかっていうのは、それはいったん無視。
『さようなら全てのエヴァンゲリオン ~庵野秀明の1214日~』
面白いものを作るのが最優先です。
僕のやりたいことをやりたいわけじゃない。こうしたらこの作品が面白くなると思うから、僕はこうしたいっていうだけで。
僕が中心にいるわけじゃなくて、中心にいるのは作品なので。作品にとってどっちがいいかですよね。
自分の命と作品を天秤にかけたら作品の方が上(重い)なんですよ。自分がこれで死んでもいいから作品を上げたいっていうのは、これはある。
同上
お金もらってやってることだし、これは人を楽しませないといけないです。自分が楽しいだけじゃいかんと思うんですよ。お金を出してもらう以上は最低限の礼儀だと、僕は思う。
食べるものだけじゃなくて、やっぱ作るものだったり、全部同じように好き嫌いがあるわけですよ。
同上、樋口真嗣による庵野評
嫌いなものは絶対要らないし、自分の作品にそれが混入されるのも嫌なわけですよ。
ただやっぱりその、ああじゃないこうじゃないっていう中で「こうだ」っていうふうに、「こうじゃないもの」の死屍累々とした…屍が「本当はこうだった」っていう形を浮かび上がらせるわけよ。
そのためには破片で満たさなきゃいけないわけ。毎回毎回(笑)。
だって作りたいもののために手段を選ばないところはあるし――たとえそれが…友情にヒビが入ろうと――甘えられないっていうかさ、そこで優しくならずにやっぱこう、「作品のためにどうすればいいか」っていうことだけをまず考えちゃう。
普通…ね、できないですよね。
機会に恵まれるたびごとに庵野はこうして自身が作品の奴隷である主旨の発言を繰り返してきたはずなんですが、その甲斐もなく世間一般が抱く庵野秀明の人物像は「好き勝手に作って、しかもそれが受ける人」からピクリとも覆る様子がありません。
――「シン・」はAパートでプリヴィズを主体につくるという特殊なつくりをしていました。小松田さんにとって、この現場はどんな手ごたえのある現場でしたか。
小松田:「画コンテを描かずにアニメをつくりたい」という話を、自分が最初に聞いたのは「:Q」のプリプロのころです。旅先でみんなで露天風呂に入っていたときに、庵野さんが「紙に画コンテを描くことですら、作為的な行為に感じてしまう」と突如言いだして。「仮面ライダー」のアクションのとあるカットを例として挙げて、「あれは意図して撮ろうとしたものではなく現場で偶然撮れたものをインサートしているだけなんだ」と。そういう作為のない素材で映像をつくりたいという話をされて、僕は「ぽかーん」と口を開けて聞いていたわけです(笑)。でも、アニメーション制作は最初から意図したものをつくっていく作業なので、それを何度も繰り返しつづけるうちにみずからの作為や意図そのものに飽きる、閉塞感を感じるということなのかなと理解しました。特撮や実写のようなライブ感のある映像表現が庵野さんは好きなのだから、そういう方向につくり方が変化するのも当然だろうという感覚もありました。だから、プリヴィズという手法も奇抜な発想からではなくて、むしろ昔から好きだったものを再現していくつくり方なんだろうなと思います。演者の芝居をデータ化したものからレイアウトを探るプリヴィズという手法をベースにして、より魅力的なアニメーションの作画が可能なのではないかと。観察という行為が、バージョンアップしたのがプリヴィズなのかなと思ってます。
月刊NEWTYPE 2021年6月号・小松田大全インタビューより
庵野自身を含め誰の頭の中にもない発想を見つけなければこの作品はこれ以上面白くできない、何もかもが予想の範疇を脱しない…という焦りが既にQのプリプロ段階で湧き上がっていたことが読み取れます。
…そして皆さんご存じのとおり庵野は一度壊れました。
折れちゃったんですよね。
『さようなら全てのエヴァンゲリオン ~庵野秀明の1214日~』鬱状態に陥った経緯を振り返って
自分の才能じゃこれ、できないんじゃないか…ってことに落ち込んで。
だから僕が終わらせる必要はなく――とにかく「エヴァンゲリオン」っていう物語が終わればいいので。それは僕が終わらせる必要ですらないっていうのか、僕の能力ではもう、みんなが満足するような終わらせ方を作れない、と思って…。
そんな庵野を、いえシンエヴァの制作を救ったのが、「シン・ゴジラ」で経験した大量のプリヴィズによって正解を探ってゆく最先端の技法と、特撮博物館「巨神兵東京に現わる」で経験した古来より続くミニチュア特撮の技法の融合でした。
「シン・ゴジラ」では大スケールロボティクスのゴジラまで作られたもののやはり違うと没になった経緯がありますが、これもプリヴィズの物量による「こうじゃないもの」の屍の山から正解を導き出す作業と同じことです。
拙blog『細かすぎて伝わらないシン・ゴジラの好きなところが細かすぎるのでできるだけ細かく伝える試み』でもちらっと触れた話ですが、アニメのモブ描写を真面目にやろうとするととても大変なんです。
モブこそ作為を感じさせてはならない存在の最たるもの。ですが人間が作画する以上、どんなに芝居をしていない作画を心がけてもそこには「芝居をしていないモブ」という作為性が可視化されてしまうわけです。
上記エントリで自分はCGや被写界深度表現の活用を現状での解決策の一つとして提案しましたが、舞台である第3村に一定のリアリティを持たせることでモブに生活感が伴えば作為性は薄れると判断したのかもしれません。
しかしやはり「第3村を描写するためミニチュアを作りました」と言うと「ほんと趣味に走ってるねえ」と笑われておしまい。
そんなふうに庵野の真意が歪められ「道楽者」の人物像が覆らない理由はどこにあるのか――
その片鱗めいたものを既に12年前、鶴巻和哉が語っていました。
鶴巻:『序』が大ヒットして。しかも観ていただいた方の評判もすごい良かったんですよね。それが庵野さんにとって――というか僕らにとってもそうですけど――ハードルを上げてしまったっていうのはある。もともとは、総集編を3本作りましょう、テレビシリーズから映画にかけてのものを、総集編として3本にまとめちゃいましょうという企画で。もっとこう、気楽に作るような企画だったんですよね。
――それこそ、ある程度、完成が見えてるという。
鶴巻:ええ。最後のほうでストーリーを多少変えて新作カットを増やしていくぐらいで、基本的に『序』『破』ぐらいまではほとんど総集編のまま、というようなプランが最初の企画だったんですよね。それから考えると、『破』の持つ意味は全く変わってしまった。
――そうですね、はい。
鶴巻:で、庵野さん自身が、それに応えようとしたということだと思うんですよね。
――うんうん、なるほど。
鶴巻:僕は結構、意外でしたけどね。庵野さんは、むしろそういうタイプじゃないだろうと思っていたんだけれど。お客さんの反応を見て、作り方を変えていくようなタイプではないだろうと思っていたんですけど。『序』が終わったあと、もっとがんばんなきゃいけないというか、『破』をもっと、なんかこう……上のものにしなきゃいけない、みたいな話をしていましたからね。特にね、次回予告の評判がすごいよかった……『序』の次回予告で、みんなが相当盛り上がっていたという話を聞いて、『みんなはエヴァが変わることを望んでいるのか?』と思ったらしくて(笑)。それゆえに、当初考えてたよりも、内容を変えようと思ったみたいですね。
――その時、鶴巻監督は意外だったということなんですけれども。その意外さをもう少し詳しく聞かせてもらえますか。
Cut 2009年8月号・鶴巻和哉インタビューより
鶴巻:もちろん庵野さんがサービス精神旺盛だというのは、これまでの作品を観ていただければわかることであって。それはもう間違いないんだけれど、どう言ったらいいのかな……そのサービス精神というのは、お客さんのリアクションを見てのサービス精神ではなくて、まず最初の客である自分というのがどこかにあって、その自分に対するサービス精神なんだろうと僕は解釈してたんですよね。
――ああ、はい。
鶴巻:だから庵野さんは、ある意味自分自身に対して作品を作っていて。にもかかわらず、客である庵野さんの持っている一般性みたいなもの――まあ、庵野さんなんで、おたく内一般性といえばいいのかな(笑)。
みたいなものが、しっかりあるがゆえに、多くの支持を得たんだろうと思っていて。――なるほど。これまでも庵野秀明という人は、とにかく真摯にものを作る人で、それはなにゆえかというと、まさに自分が求める作品に対して、一切の手抜きがなかったわけで、同時に、それが彼一流のサービス精神だったわけですよね。
鶴巻:はい。
――ところが、外部に設定した目線が入ってきて、不特定多数の期待に応えようとしたという。それは、ものすごい変化ですよね。
鶴巻:うん。だから、意外だったんですよね。
――ただ、その変化でエッセンスが薄まるのではなく、エンタメ性がガンと上がることに繋がったというところが『破』のすごさなんだと思うんですけどね。
鶴巻:うん。まあでも、そう簡単にはいかないところが面白いところで。『お客さんに対して応えるべく、変える!』とは言うけれどなかなか決まらない。どう変えればお客さんの期待に応えたことになるのか、自分たちも納得できるのか、手探り状態のまま『破』の制作が二転三転していく。
――(笑)。
鶴巻:少なくとも僕自身はうまくいってないなあと。そういう状態が長いこと続いていたという感じがありますね。
――それは、かつて一度創り上げたエヴァの世界がそれだけ強烈だったからというのもあるとは思うんですけれども。
鶴巻:やっぱり庵野さん自身、10年前にエヴァを作った時っていうのは、まさに自分のベストとして作ったのであって。だから、変えようとするってことは、ベストではない、満点じゃないっていうことだから。なんで減点しなきゃいけないのか、それは嫌だ!みたいなことが起きてたんじゃないかなあと思うんですよ。昔のエヴァに後悔があるんであれば、後悔しないほうに変えるということはできたと思うけれど、おそらく後悔なんてないんでしょう。
――そうでしょうね。
鶴巻:だから、変えようと思っても、それは悪い方にしか変わっていかないというようなジレンマも庵野さんにはあったのかも。変えるって言いだしたのは庵野さんなのに、あがってくる脚本自体は――まあもちろん変わってるんですよ?まったく同じものがあがってきたわけじゃなくて、変わっているんだけれど、変わってないというか。どう言ったらいいのかな……たとえば、会話やシチュエーションは変わっているんだけれど、そのなかで起こっている全体の出来事自体はテレビのエピソードと同じであったりとか。
――うんうんうんうん。
鶴巻:セリフを言うキャラクターが変わっただけで、シンジにとっての意味は変わっていないんじゃないか、とか。そういったことは指摘させてもらいました。むしろ庵野さんは、思い切って変えたつもりだったんじゃないかと思うんです。でも、よくよく分析してみると実はあまり変わってない――っていう感じが僕にはしたんですね。
――なるほどなるほど。
鶴巻:ただ、庵野さんがそれに対してどれぐらい自覚的だったのかが僕にもわからないんです。庵野さんにとっては精一杯変えてみたけど、僕がそう受け取れなかったのか。それとも、スタッフの前で一度変えようとは宣言したけれど、脚本を書きながらやっぱり変え過ぎないほうがいいと考えて、あの脚本になったのか。わからないところではありますね。
同上
つまり庵野の中にはもともと作品を主観と客観のいずれからでも評価する目が備わっており、カラー設立~新劇場版の制作過程でプロデューサーとしての目も養われていった結果、自然と自身が面白いと感じるものに一定の信頼を寄せ、同時に自身の持つ引き出しだけでは足りないと自覚するようになった…と考えると、マッキーそのものと言って過言ではない存在たる異物・マリの投入を求めた理由にも整合性が得られるように思えます。
そしてそんな「自分が面白いんだからみんなだって面白いに違いない」という自信が彼に道楽者の評が下されがちな原因なのかもしれません。
とは言っても自分と世代の近い人だとナディアの頃までのよくも悪くも自由奔放な、ヤマトのコンテ完コピしちゃうアンノくんの残像が強くあるがゆえに変節を現実のものとして受け入れきれない部分があっても仕方ないか…とも思うわけですが。
かくいう自分だってシンエヴァで「激突!轟天対大魔艦」がかかったときには「またそういうことしちゃう~」とニヤつきながら観てましたからね…。
そしてだからこそ庵野自身も機を見ては価値観のアップデートをアピールし続けているのかもしれないですね。
鶴巻:庵野さんのスタイルとして、エヴァンゲリオンに登場するキャラクターは、全部自分のある一面であるという話をしていますよね。カヲルとかレイのような極端なキャラクターでさえそうなんだっていう話をしているわけで。庵野さん的には恐らく、マリもそこまでいかない限り描けないんだというのがあったんだと思うんですよね。
――はい、はい。
鶴巻:完全に理解してないと描けないっていうジレンマがあって。で、理解するってことは、やっぱり自分のなかにあるものになっちゃうわけで。で、自分のなかにあるものである以上、結果的に自分自身であるところの『エヴァ』の世界を壊せない、みたいな感じになっていたんではないかなという感じがしますね。
(中略)
鶴巻:ちょっと話は逸れるけれども、僕の印象としては、庵野さんは、そういう作家性だけが秀でた人ではなくて、むしろ技術、テクニックがすごいなあと思う人なんですよ。編集であったり、音響の設計であったりという部分での、テクニックの優れた人だなあという印象なんですね。
――なるほど。
鶴巻:庵野さんの凄まじい技術力は、もっと評価されるべきというか、もちろんみんな評価してるとは思うけど、ほんとびっくりしますから。だから、こんな作り方をしていてもちゃんと映画になるんですよ。恐らく普通は、もっと、スマートに作っていかないと、まとまらないんだと思うんです。庵野さんは最終的に、技術力でクリアできるからこそ、最初のところではガチャガチャしてていいっていうふうに判断してるんじゃないかなあと思いますね。編集、それから音響まわりの発想やテクニックに関してはほんとに、驚異的じゃないかと思います。そこは今でも誰も追いつけないと思うんです。エヴァ以降の、ある種の純文学的な作家性の部分だけをクローズアップしちゃうと、庵野さんを見誤ってしまう可能性があって。むしろ、今回の変化というのは庵野さん自身が、そういったイメージから離れたいということなのかもしれないですね。
同上
以上、新劇場版に関する庵野自身の発言やスタッフの証言をいくつか傍証として挙げてみましたが、改めて俯瞰してみると第3村のミニチュア製作は上記引用のいずれもが指し示す回答、当然の帰結として落着したように見えます。
庵野作品を庵野作品たらしめているのは「自分の思い出とか心の中に残っているもの」がなぜ思い出として強く自分の中にあるのか、その本質・根源をつかみ取り、咀嚼し、再構成する力です。
大張正巳が好きだからって大張正巳みたいなポーズを取らせただけでは自己満足の域を出ない。エヴァと同じような構図を使ったり、エヴァと同じようなセリフのこぼし方をしてみたところで出来上がるのは「エヴァっぽい何か」でしかない。突き詰めるべきは大張ポーズのかっこよさを構成する要素であり、エヴァの構図に覚えた感情の出どころのはずです。
盤石な快感原則にのっとって選びあげた構図とタイミングで構成すれば、個々のシーンの発想が誰のものであろうと完成したフィルムは紛れもなく庵野秀明の作品として顕現する。それが庵野秀明の言うところの「ただのコピーに意思を込める」作業なのです。
前エントリ『(ネタバレ少なめ)IMAXが終わっちゃう!シンエヴァの映像と音響が追い求めたアニメーションの快感原則』で上記のように書いた時には最後に引用したCut誌上でのマッキーの発言の存在をすっかり忘れてました。なんとも手前味噌ですが、新劇場版が完結した今12年ぶりにこのインタビューを読み返していて自分の分析が的外れでなかったことの裏付けを思いもよらず得られたように感じました。
マッキーも高く評価している庵野の音響設計能力。一般に庵野は「画の人」ととらえられていますが、自分はそこにプラスして「リズムの人」でもあると常々思っていました。
エヴァにかぎらず庵野作品では画と音楽、SEが非常に高い次元で調律されていることは論を俟たないでしょう。その事実ひとつとっても庵野が鋭敏なリズム感の持ち主である証拠と言えますが、このリズム感は画そのものにも発露しています。
というか、画にもリズム感は大事です。レイアウトには比率や比例関係、画面内の構成要素を図形に簡略化したときに浮かび上がってくるバランスといった数々の要素が複雑に絡み合っており、それらが生み出すリズムの気持ちよさが肝心です。
実際このエントリ群でも何度か意識的に「リズム」の単語を用いてきました。
画のリズムと音楽のリズム、どちらが先に庵野に備わったのかはわかりませんが、現在の彼をかたちづくっているのは画と音楽双方のリズム感の相乗効果なのだと考えます。大きな耳は伊達じゃなかった(のか?)。
してみると新劇場版で使用された「恋の季節」「今日の日はさようなら」「翼をください」などの懐メロも、その起用理由は歌詞やメロディより「それぞれのシーンに欲しいリズムとテンポで、庵野の記憶にあって(音楽の好みはおおむね80年代で止まっていると宇多田ヒカルとのインスタライブで述懐してます)、一番エモかった曲」だったからという線もあながち否定はできないかも…?
…いささか脱線が過ぎました。そろそろ写真も尽きてきたのでミニチュアの話に戻りましょう。
これは天竜二俣駅ホームの隣に設置されていた謎のトレーラーハウスです。
先に紹介したテントや仮設トイレの置かれた資材置き場のような広場など芝居をするつもりだったのかもしれないと思わせる形跡はこのミニチュアで何箇所か見られたのですが、ことここに関してはわざわざ人間の身長参考モデルまで立たせてあり、ディテールの準備の度合いがケタ違いです。
使用ミニカーはマジョレットかなにかのスバルSTiウイングトレーラーですが、これでスケールどおりなのかまではわかりません。
しかし他と比べて明らかにここでしか見られないディテールが盛り込まれており、ここに居を構える誰か特定のキャラクターがわりと決定稿直前まで存在していたのではないかと思えてなりません。
自転車まで用意されています。ここでどんな芝居が繰り広げられる構想があったのか、機会があれば是非スタッフにその真相を聞かせてほしいですね…。
第3村ミニチュア見学から得られた知見について、3エントリにまたがって長々と語ってきました。
10/1からいよいよ開催される庵野秀明展では再びこれらのミニチュアが展示されます。これから初見となる人にとってこのエントリが少しでもわかりみの助けになると嬉しく思います。
このミニチュアの保存・展示は庵野秀明が設立、理事長を務めるNPO「アニメ特撮アーカイブ機構(ATAC)」の活動の一環です。
特撮博物館以後も数々のミニチュアの散逸・破損を食い止め有形文化財として保存してゆくため設立された同団体は円谷英二の故郷である福島県・須賀川に開設された「須賀川特撮アーカイブセンター」にも資料収集で協力しており、特撮博物館で展示されたミニチュアの一部も常設展示されています。
ATACは認定NPO法人の申請受理を目指して寄付サポーターを随時受け付けています。
このミニチュアの展示に意義を感じた人は下記リンクからの寄付を是非ご検討ください。自分も微力ながら寄付サポーターとして毎年3000円を投じています。
CG全盛である今となってはミニチュア特撮など前世紀の遺物、とシニカルにとらえる人もいます。
しかし例えば「ブレードランナー2049」では「サンダーバードARE GO」でもミニチュア撮影を担当したスタジオ・WETAワークショップが3Dプリンタを駆使して精巧に作り上げたミニチュアでロス市警周辺を撮影していたり、現在のハリウッドでもまだまだミニチュア特撮が活躍している現場は存在します。
トレンド自体はCGに置き換わろうとも、ミニチュア特撮で蓄積されたノウハウは現場で今でも脈々と息づいているんです。
…とまあ堅い話は抜きにして。
これらのミニチュアを観察してからシンエヴァ本編を見返せば必ず新しい発見があるはずです。せっかくまた展示の機会があるんですから皆さんどうかその目で味わってください。
かえすがえすも自分自身もっと早いうちに見に行っておけばこの昂奮をもっと早く伝えられたのに…と残念でなりません。
スモールワールズTOKYOには1/80相当で作られた第3新東京市ジオラマなども常設展示されていて、そちらは自分が訪れた日も常に写真を撮る人だかりができていたのですが、このミニチュアスペースはせいぜい多くて10人足らずと終始閑古鳥が鳴いていました。
まあ映画を見てなきゃ何のこっちゃわからないし、電飾もなければ塗装すらされていないベニヤ板の寄せ集めではバエる写真も撮れないから無理もない…んでしょうか…。いいや自分と同じように貼りついていた来場者の静かな熱量は伝わってきたからいいんだ!
今から庵野展でこのステージと再会できる日が待ち遠しくて仕方ありません。とりあえず11月のコミティアにかこつけて2日に分けて見に行くスケジュールは立ててありますが、大阪に来た暁には通ってやりますとも。クビ洗って待っていやがれ。なんなら山口展にも行けそうなら行くからな!ついでに宇部新川の跨線橋駆け上がるんだ!
最後に100億達成直前舞台挨拶ライブビューイングの感想ツイート貼っておしまい。