Qを3回見てやっと感想がまとまったので公開します。ただしうっかりネタバレを見てしまいたくない人のため11月いっぱいまでこのエントリには書き込まず、テキストへのリンクのみ掲載とします。
12月に入ったら注意書きを添え全文を掲載します。
というわけで、下記はオールネタバレ記事テキストへのリンクです。
htmlではなくtxtで設置しディレクトリにはいちおう検索避けの対策を施してありますが、行儀の悪い検索ロボットだと拾っていってしまうかも知れません。
閲覧は自己責任でお願いします。
新劇場版Q感想テキストリンク
2/19
BD・DVDの発売日が決定したそうなのでそろそろこっちへ全文を掲載します。
新劇場版ではこんなシンジ達の目指すゴールが(とりあえずは)夢想できる。それはひょっとするととても自分勝手な理想の押しつけなのかも知れないが、それでもなんとなく以前のようなそれこそ「気持ち悪い」場所には着地しないで済みそうという期待が持てる。同時にそんな楽観的な期待など完膚無きまでに叩き潰して欲しいというマゾな願望もあるんだが。
3年半前、破の感想でこんなことを述べた。そして遂に公開されたQ。それはそれは見事にこのマゾな願望を充足させてあまりある内容だった。
自分を「要らない子」と思いこみ他者との関わり合いを恐れていたシンジが日本中の「頑張って!」を背負って使命感に目覚める序、父親への承認欲求から始まった「エヴァに乗ること」がいつしかシンジ自身の望み、願いとなった破。そのいずれもジュヴナイルを主人公に据えたSFストーリーとしては誰もが認める傑作となったのは言うまでもない。
エヴァはいわゆる「セカイ系」のはしりとされている。セカイ系とは簡単に言えば「主人公を取り巻くきわめて小さなコミュニティ、多くは主人公とヒロインの関係性だけで世界・宇宙規模の問題を描いている作品」のことだ。
しかし序・破ではセカイ系独特の「主人公のミニマムな行動原理」も「カキワリのように希薄な舞台装置」も感じ取ることは難しく、むしろ主人公もそれを取り巻く世界も積極的に外へ外へと描写を積み重ねられていたように思う。
しかし再び振り返ってみるに、それは果たして社会現象とまで呼ばれた「エヴァ」というタイトルがわざわざやるべきことだったのかという疑問が湧いてくる。
一貫性を持つコンテクストと主人公の心理が生み出すクライマックスでのカタルシス。序・破の脚本は作劇術のお手本と呼ぶに相応しい非の打ち所のないものだった。実際それらは喝采でもって観客に受け入れられ、空前の大ヒット作となった。
それは確かにそうなのだが、同時になにか寂寥感のようなものを覚えたのも確かだ。寂寥感の正体とはつまり序の感想で述べた
ただ同時に独身時代のような「歪で気持ち悪いけど人の心を惹きつけるもの」はきっともう作れないんだろうなあとも改めて思いました。
というものだ。
そして序の感想ではこう続けた。
【新劇場版とは
オリジナル以後ずっと公式/非公式両面から『補完』され続けてきた
「歪な、でも目を背けきれないエヴァンゲリオンというターム」
を
「きれいなエンタテイメントとして消費され終わりを迎えるヱヴァンゲリヲンという商品」
に再構築する作業なのだろうと。そういう意味でこの3+1部作は「最後にして最高のキャラクターグッズ」となるであろうと思うし、そうなって欲しい。
この思い自体は今も全く変わっていない。庵野自身もつい最近になってこんなことを語っているようだし、これについては的外れとも思っていない。
こうしたかつての感想を踏まえ、結論から言おう。
今とてつもなく嬉しいのだ。「きれいなエンタテイメント」と「歪で目を背けきれない得体の知れないもの」は二律背反の関係にあるという思い込みをこうも簡単にぶち壊してくれたことが。
そして更なる目的実現のため、これは「エヴァだからこそわざわざやるべきこと」だったのだ。
冒頭の初号機強奪作戦からして観客の置いてけぼり感は凄まじい。
もう戦線復帰は絶望的とさえ思われたアスカがどういうわけか改2号機とともに最前線に立ち、独断専行の塊のようだったマリがその援護についている。
彼女たちが何と戦っているのかは全く明示されない。
初号機をおおう棺のような物体にはNERVの文字が見え、その中から初号機を護衛するかのように現れた敵と思しき物体(パターン青、しかし使徒とは呼称されない)には初号機の意匠が見て取れる。
やがて窮地に追い込まれたアスカが思わずシンジの名を叫ぶと、それに呼応するかの如く初号機らしき何かが棺を突き破り、敵をビーム一閃なぎ払う。
一体何が…再起不能レベルのダメージを負ったはずのアスカと2号機に、Mark.06の槍に貫かれ擬似シン化形態を解いた初号機に、そしてそれを操っていたはずのカヲルに、一体何が起こったのか。
破で見せられた予告をすべて「空白の14年間」に封じ込められ、のっけから観客それぞれが持ち込んだであろう「Qの予想」は無碍に取り上げられた。
唯一最大の防具を入り口で奪われ、否応なくまっさらの状態でスクリーンに相対することを余儀なくされた恰好だ。
目覚めたシンジが見たのはいつもの天井ではない。
傍らにいるのは極めて事務的にことを進める担当医官・鈴原サクラ。
ミサトらしき人物もリツコらしき人物もその風貌に面影はなく、しかもミサトは「艦長」だという。
まるでマトリックスから現実世界へ二度目の出産を経験したネオのような当惑さえ覚えさせるこの一連のシーン、結局のところは破から14年後の世界であると判明するわけだが、序・破とおしてさんざん言われ続けてきた「ループ説・パラレルワールド説」を匂わせ(ほんとにパラレルに迷い込んだのか…?それともこっちが現実で今までのが…?)と思考の目眩に陥らせる実に巧妙なミスリードだった。
ところでこのヴンダーの描写はΝ-ノーチラスに合流した直後のナディアとジャンの目線にダブる。大小の丸窓で構成されたブリッジはまさしくΝ-ノーチラスのデザインを受け継いでいるし、長髪を束ねたミサトの姿はネモ、金髪をばっさりとカットしたリツコはエレクトラだ。なによりヴンダーの浮上からネーメジスシリーズを振り切って飛び行くシーンに流れる勇壮な曲は紛う方なきΝ-ノーチラスのテーマだ。このセルフパロディができるタイミングはNHKでHD版ナディアが放送されている今をおいて他にない。Qで唯一と言っていい「ニヤリとさせるサービス」である。
ただひとつ明確に違うのはそこでの主人公の扱いだ。
「エヴァンゲリオン初号機パイロット」としてのアイデンティティを確立したシンジにミサトは「あなたはもう何もしないで」と冷たく言い放つ。
ネルフの誰よりもシンジがエヴァに乗ることを望んでいたはずのミサト。綾波を救うことしか頭になかったシンジに「誰かの為じゃない、あなた自身の願いのために」と背中を押してくれたはずのミサト。
やはりシンジの戦う動機のどこかには「ミサトの願いを叶えたい」という思いがあったのだろう。
納得いく説明のあるなしを超越して、だからその一言はシンジを絶望させるに充分すぎた。「誰か僕に優しくしてよ」どころの話ではない。見知った顔も見知らぬ顔も、ヴンダーのブリッジクルーはみなシンジに微笑みかけるどころか背中を向けて目を合わせようともしない。オペレーター北上ミドリに至っては何やらシンジを憎んでさえいるふしがあるのだ。
命をかけて世界を守ったはずなのに、誰も、アスカも、ミサトすらもシンジを肯定しようとしない。彼のアイデンティティであったエヴァ初号機、ヒトの造りしモノでありながらヒトの手には負えない存在であったはずのエヴァ初号機は今やヴンダーのメインエンジンとなり果て、その手から取り上げられた。もはやシンジの存在意義は彼が救い出した綾波以外にない。
アヤナミの乗るMark.09に連れられヴンダーを出奔するシンジの感情はまさに観客とシンクロしていた。ガキだと言われてもしょうがない。実際シンジと観客の時間は14年前のニアサードインパクトで止まっていたのだ。14年の空白を埋める満足な説明もなく皆勝手なことを言う。説明することすらおぞましい何かが起きたのかも知れないが、これでは納得できようはずもない。
「早く日常へ戻りたい。ネルフの日常に戻りたい」…しかし人類最後の希望だったはずのネルフ本部は見るも無惨な廃墟と化していた。
そう、Qではこのようにシンジが求めているもの=観客が求めているものをことごとく、それも念入りに取り上げられるのである。
数多くの職員が働いていた本部施設は荒れ果てて人っ子ひとり見あたらない。カラカラに乾いたケージには雑草が顔を見せ、エヴァの拘束具やアンビリカルブリッジには赤錆が浮いている。縦坑も搬送用エレベータも硬化ベークライトで埋められ、父との再会を果たしたあの窓は既に朽ち果てている。
観客にとってネルフの象徴だったあのロゴは砲弾でボロボロにされ、代わって現れた新たなロゴはまるでモザイクがかかったようで、それがそのままネルフという組織自体の変容を物語っている。
主人公周辺のミニマムな登場人物と乱立するカキワリ状態の拘束具や壁材。序・破で綿密に構築してきた世界観が御破算となったその光景はまさしく「セカイ系」の舞台装置だ。
ここに至って「ヱヴァ」は原点たるセカイ系に立ち戻ったのである(別に今ごろになってセカイ系を議論したいのではないです。舞台装置の区分として便宜的にそう読んでいるだけなので悪しからず)。
そしてその事実が何よりも観客を絶望させる。寄る辺をなくした観客は必然的にカヲルに最後の希望を託す。「これだけ勿体つけたんだ、お前が何とかしてくれるんだろう」と。
シンジはシンジで自分自身の「綾波を救いたい」という願いがニアサードインパクトを引き起こしてしまったこと、エヴァに母ユイの魂が宿っていること、ユイを雛形に綾波シリーズが作られたこと、それがすべて父ゲンドウの計画であることを立て続けに告げられ、アヤナミがあの時に救った綾波ではないことに気づく。
「私たちの街、そしてあなたが守った街」も、シンジにとって最後の存在意義だった綾波をも取り上げられたシンジもまた必然的にカヲルに最後の希望を託す。
シンジの罪と罰、DSSチョーカーをカヲルが引き継ぐシーンは実に象徴的であり、なおかつTVシリーズ・旧劇場版でカヲルの最期を知る者にとっては来るべき悲劇を予感させるものだった。
この感想を書いている時点でQは3回鑑賞済みだが、このシーンに限らずカヲルとシンジのやりとりは緒方恵美・石田彰両キャストの演技が素晴らしく、3回が3回ともこの場面の
「でも僕は信じて欲しい」
「…できないよ…!!」
「………みさとさんがこれをつけたんだ………」
の迫真の演技には胸が詰まる思いがした。
Qで特筆すべきひとつにアスペクト比の変更がある。テレビ放映も視野に入れてか序・破は16:9に近いアメリカンビスタサイズで制作されたが、Qではスーパースコープサイズを採用し、ロングのレイアウトが多用されている。この横長のアスペクト比はアクションには些か不向きだが、Qはストーリー的にも静の場面が多く、また庵野が得意とする左右方向へ極端に偏ったレイアウトでより効果的な画面が作れることが主な理由だろう。
実際このシンジとカヲルのシーンでも両者の精神的距離感の演出に大きく貢献しているし、ほかに冒頭の改2号機を乗せたブースターユニットが回頭するシーンや飛行するヴンダーのシーンを見てもこれらのメカニックがスーパースコープサイズを念頭に入れてのデザインであると確信できる。BD発売までに我が家のテレビをあと10インチぐらい上のサイズに買い換えたくなるほどだ。
かくしてシンジとカヲルの二人は最後のエヴァ第13号機に乗り込み、セントラルドグマを目指す。残された最後の希望、世界の「REDO」を行なうため。
だがその最後の希望も実にあっけなくゲンドウによって取り上げられ、自律改造されたMark.06=第12使徒が行なおうとしていた真のサードインパクトの続きが始まる。まんまとゲンドウ=庵野の思惑どおりに観客もまた最後の希望を取り上げられた。
ロンギヌスの槍が2本だと何がどう違うのか。
辛うじて読みとれるのは、14年前にシンジが起こしたニアサードインパクトと、リリスが結界を張った原因=13年前にMark.06がリリスと接触したことで起こったと思われるサードインパクトは完全に別の現象であることぐらいである。
・8号機の発射したアンチATフィールド弾がATフィールドと干渉することなく13号機に吸い込まれていった描写とその後のアスカのセリフから、13号機はATフィールドを持たないことがわかる(改2号機の攻撃はファンネル状のネーメジスシリーズに似た物体が発するATフィールドで防御していた)。
・破でゲンドウが月面タブハベースを視察した際にMark.06の建造方式が5号機までのエヴァとは異なると言及しており、そのMark.06がリリスと接触したことでサードインパクトは発生したようである。またMark.06はロンギヌスの槍を抜かれリリスから解放された後に第12使徒に変化した。
・アンチATフィールドはEoEではS2機関を開放した量産型エヴァとリリスがそれぞれ発生させていた。
・渚カヲルは第1使徒(=ADAM?)である。
これらを根拠に13号機はMark.06とも異なる全く新しい建造方式、つまりセカンドインパクト時に現れた光の巨人――リリスと由来を同じくするもの――をベースとして造られたもので、これと使徒・カヲル、シン化のトリガー・シンジをロンギヌスの槍2本を媒介として接触させ、「サード」を上回る「フォース」インパクト=ゲンドウやミサトの言う「神殺し」を行なおうとしたのだろうか…と。
ではその一方の槍がカシウスの槍ならどうなったのか、なぜカヲルともあろう者がゲンドウの欺瞞を見抜けなかったのか、また太古からの思念体であったかのようなゼーレは一体何者だったのか、そもそもリリスの躯とMark.06が残っている状態で13年前のサードインパクトは完遂されたのか…いずれも現時点で観客に与えられた情報では正確には知る由もない。
なぜなら今は七並べで言う8と6をすべてゲンドウに握り潰されている状態だからだ。
その握り潰された状態、それが紛れもなく「エヴァ」なのである。
庵野以外の全員がパスを使い切り、嬉々として残りの手札を「ずっと俺のターン」状態で並べてゆくさまを為す術なく見守るのが「エヴァの楽しみ方」なのである。
少なくともTV版~EoEはそうだった。
時代が移り変わり、EoEもTV版も知らない観客相手に同じことを仕掛けるのは難しい。
そこで庵野は一計を案じたのだろう。
まずは器だけはよく知られている「ヱヴァンゲリヲン」という鍋の中身に誰にでも一目でわかる明快な「エンタテイメント」を満たす。
序・破を通じてその「エンタテイメント」に観客全員が浸かったところで鍋を火にかける。
実はこの「エンタテイメント」は火にかけられると「エヴァンゲリオン」に変質する迷惑な性質を持っている。
鍋の中はあっという間に「エヴァンゲリオン」に置き換わり、観客は阿鼻叫喚のまま為す術もなく煮上がってゆく。
それが序破Qの正体だったのだろう。
直撃世代相手に同じことを仕掛けるのはもっと難しい。
彼らには呪いがかかりっぱなしなのだ。お灸が効きすぎているのだ。
そこで庵野は一計を案じたのだろう。
それは「憑き物落とし」。エヴァによってかけられた呪いはやはりエヴァでしか解けない。
だから敢えて「ヱヴァンゲリヲン」の器に彼らを呼び寄せた。
序で「エヴァを好きだった、今も好きでいたい自分」を肯定させ、破で「綾波やアスカを好きだったあの頃の自分」を肯定させた。
彼らの憑き物が綺麗さっぱり落ち、心が希望に満ち溢れたところで一気呵成に新たな呪いをかける。
それが序破Qの正体だったのだろう。
まさに”YOU ARE (NOT) ALONE.”今までどおり独り心の中にEVAを好きだった自分を封印していてもいいし、公言してもいい。
まさに”YOU CAN (NOT) ADVANCE.”エンタメとなったEVAを捨てて先に進んでもいいし、残って見届けてもいい。
まさに”YOU CAN (NOT) REDO.”EVAファンをイチからやり直してもいいし、そうしなくてもいい。
「確かに結婚はしたが、それは俺が過去を捨て去ったからできたのではない。たまたま安野モヨコが庵野秀明という人間を愛したが故の結果だと言うだけだ。その程度のことで俺の本質が変わると思ってもらっちゃ困る」
そんな高笑いが聞こえるようだ。まんまとしてやられた。
繰り返す。それがとてつもなく嬉しいのだ。
あの頃のめんどくさい庵野が帰ってきた?そうじゃない。
庵野はずっと庵野のままだった。丸くなったどころかジ・Oもビックリの隠し腕を装備するに至ったのだ。なんてこった。
そしてまたとてつもなく嬉しいのだ。
公開直後から直撃世代も新劇場版世代も足下を掬われて戸惑い、ある者は手を取り合って祈り、ある者は罵り合っているこの惨状が。
なぜって、これで世代など関係なくみんな横一線で完結編を待てるのだ。「お前にはわかんねえよ」「年寄りうぜえ」と不毛な言い合いをする必要がなくなったのだ。
序破の2作あってこそのQ。わざわざここまでお膳立てしてくれた。だからこう言いたい。
「我の願いは叶った。よい。すべてこれでよい。EVAファンの補完。安らかな魂の浄化を願う」
…それにしても「あなたが守った街のどこかで今日も響く 健やかな産声を聞けたなら きっと喜ぶでしょう」って歌詞がこんなに切なくなるとは当の宇多田ヒカルも想像してなかったんじゃないかな…。