マリほどの異物を投入してでも新劇場版でエヴァを終わらせねばとの危機感はあったのかもしれない。しかしエヴァが過去やってきたことの中で否定する必要があるとすればそれはやはり「謎は謎のまま放っておけば煮詰まったファンが好意的に解釈して作品の尾ひれを伸ばしてくれる」という不健全なヒット作製造法そのものではないかと自分は思う。
庵野がEoEでエヴァを本気で終わらせようとしたのは間違いない。しかし壊れたままで走り続けなければならなかったEoEとは異なり、心を休めるだけ休めてから臨んだEoE、まさに「真・エヴァンゲリオン劇場版」が本作であったと自分は思う。
EoEの否定ではない、EoEで言葉が足りなかったところを冷静に見直し改めて届けなおす営み。
「夢は現実の続き、現実は夢の終わり」の言葉には観客に対する一方的な虚構からの脱却を促すニュアンスが含まれていた。
「虚構と現実を等しく信じられる生物は人間だけ」というゲンドウのセリフはそれを受けての顕著な改変であったと感じる。アニメそのものが嫌いになりそうなところまで落ちた鬱期間に仲間達の作るアニメ作品に触れて帰ってこられた庵野個人の実感も大いに籠もっていたはずだ。
「現実が辛く感じたらいつでも虚構に戻っておいで」――かつて拒絶でしか自分を保てなかったせいで「現実に戻れオタクども!」と刃物を振り回したことをあるいはずっと悔いていたからこそ出てきたメッセージなのかもしれない。
「すまなかったな、シンジ」――初号機にその身を食わせることでしか罪を償えないと思っていたゲンドウ。だがシンジが本当に望んでいたのは他者との無条件の融和でもなければ母との再会でもなく、ただ父との和解だった。
ゲンドウの心象風景に流れる工業団地の風景は庵野の故郷である宇部新川、道路を跨ぐいくつものパイプラインはJR宇部新川駅前から興産通りを直進する景色そのものだ。視聴者が25年ぶん歳を取ったように庵野もまた歳を取り、今や自己の投射先はシンジからゲンドウに移った。「すまなかったな」と言われる立場から言う立場に移ったのだ。
EoEでは「お前達が入れあげているものはただのシャシンだ。ただの絵だ」とこれ見よがしに差し込まれる裏返されたセル画の束の映像を本作では更に映写機からスタジオの壁に投影する。だが我々は既に知っている。虚構と現実を等しく信じられることを。虚構の中で入れ子になった虚構、作り物同士の恋さえも無限に信じられることを。
カヲル「再びATフィールドが君や他人を傷つけてもいいのかい?」
シンジ「かまわない。…でも僕の心の中にいる君たちは何?」
レイ「希望なのよ。人は互いにわかり合えるかもしれない、ということの」
シンジ「でもそれは見せかけなんだ。
自分勝手な思い込みなんだ。
祈りみたいなものなんだ。
いつかは裏切られるんだ。
僕を見捨てるんだ。でも僕はもう一度会いたいと思った。
「まごころを、君に」より
その時の気持ちは本当だと思うから」
さりとてEoEの時点でここまで明確な回答は出ていたのである。だから結局はトータルでの伝え方が乱暴だったということなのだ。
綾波を、アスカを、ゲンドウを、カヲルさえも呪縛から解き放った結果その全員が呪縛の根源たるシンジのもとから旅立ってゆくエピローグ。
インフィニティとなった人類が再び個人にほどけて地上へ還ってゆく。
人類の補完からの帰還は大きなくくりで言えばEoEも本作も同じことを描いている。しかしながら「他者を拒絶できる世界への帰還」から「他者に好きだと伝えられる世界への帰還」へ語り口を変えたことは非常に大きな違いである。
伝説となって久しいアスカの最後のセリフ「気持ち悪い」は様々な考察がひととおり為された今でこそそういうものである、と半ば無理矢理にでも飲み込まれていた。
自分とてEoE初見以来ずっと肯定派のつもりでいたのだが、本作で再構築された展開を目の当たりにした今となっては「庵野がそう言うならそうなんだ」という後ろ向きな、ある意味で強がりの肯定だったことを認めざるを得ない。後知恵でいくら正当化しようともあの日に劇場で最後に打ちのめされた傷は傷として厳然と存在していたのだ。と思い知らされた。
EoEで庵野は文字通りパンツを脱いで見せた。これから見せるのは俺の自慰行為ショーであると『Air』冒頭ではっきり映像化しているのだから疑いようもない。
そんなパンツを脱いだ庵野を当時の自分含む多くの観客は賞賛した。だが庵野のその行いを本当に心の底から「これぞクリエイター」と純粋な敬意で評価できた人が、いいぞもっとやれという無責任な野次馬根性は一欠片もなかったと断言できる人が果たして何人いたのか。もういいお前は充分やったと毛布にくるんでやれる人がいたか。
こう考えた時、そんな無責任なフォロワーを敵視するどころか再び救済を試みようとするそのサービス精神にただただ頭が下がる思いである。
正直なところ自分は初見Aパートからずっと感極まっていて細かいセリフや描写の意味の多くを取りこぼしていたのだが「涙で救えるのは自分だけだ」の一言でようやく我に返った次第である。映画に動かされる感情に身を委ねて涙を流すのは確かに気持ちいい。けれど今は心穏やかに彼らの物語の終わりを見届けなければと思い直すことができた。
ミサトの命と引き換えに手渡されたガイウス=ヴィレの槍で以てNEON GENESISを発動させようとするシンジを止めたのは母ユイ。ユイの背中をそっと支えるのは父ゲンドウだった。
来るべき使徒との対決、そして契約の時に備え自分の意思で初号機にダイレクトエントリーしたユイ。理論の提唱者であるミサトの父とユイが全ての元凶のようにも見えるが、その理論が事実であった以上彼らを責めることはできない。そうは言っても遺されたゲンドウはたまったものではない。
「もしも願いひとつだけ叶うなら/君のそばで眠らせて/どんな場所でもいいよ」
Beautiful Worldの歌詞がそのままゲンドウに当てはまるかのようだ。
人類を救うためとはいえ永遠の存在となることを決意したユイを見送りたい――ゲンドウの悲願「ユイに再会する」の真意はそこにあった。
「父に、ありがとう/母に、さようなら」テレビ版弐拾六話のラストメッセージがこれほど美しく回収されるのか…このシーン前後から自分の中に去来する想いは「ああ、終わっていく。エヴァが終わっていく」それだけだった。
渚にて。
NEON GENESISを両親に託しマイナス宇宙の底の底で自我境界を失ってゆくシンジ。少年は神話になろうとしていた。
そこへやってきたのが終わらせ請負人たる真希波マリ・イラストリアスである。
先にも言ったようにマリはこの物語において異物であり、エヴァを終わらせるとは即ちエヴァに関わる全てとエヴァそのものを救うことを指す。
真の希望をその名に冠するデウス・エクス・マキナであり(イスカリオテの)マリア。絶対的救済者と言い換えてもいい。
自身を贄としてNEON GENESISを発動させる覚悟だったシンジは初号機=ユイと13号機=ゲンドウの遺志によって自分も救われなければならないのだと知らされる。メタ的観点で言ってもシンジの救済は観客の救済と同義である。
物語の構造上シンジを救える立場にあるのはエヴァの円環の外からやってきたマリただ一人。
では救済者は誰が救済するのか?
奇しくもQと前後してテレビ版・劇場版が制作された『魔法少女まどかマギカ』にもつながる命題である。
『まどかマギカ』では救済者たる概念となった鹿目まどかを救済するため暁美ほむらが自身を悪魔に墜とす選択をした。第三者から見れば台無しにさえ見える選択だが、当事者にとっての幸せを最優先した結果と受け入れることは不可能ではなかった。これはこれでまどマギらしい円環の閉じかただと言える。
最後の最後に残った難しい選択を本作は実に清々しくやってのけた。
シンジの首から呪縛の象徴たるDSSチョーカーを外し、「行こう、シンジくん」と差し伸べられたマリの手をシンジが逆に握り「行こう!」と呼びかける。
「行こう、マリ」ではない。ただ一言、カメラ目線での「行こう!」だ。
マリだけでなく観客全員――マリは観客の願望、全員が救われてほしいという願望を一身に抱いた存在であり最初からこれらは同義と言っていい――を呪縛から解き放つ一言。
いささかシンジが超然的すぎると感じる向きもあるかもしれないが、シンジがマリを選んだ理由はやはり「互いが互いを救いたい気持ち」にあるのではないかと思う。「綾波がカヲルと、アスカがケンスケとくっついたから消去法でマリ」のような消極的な理由ではないと。
そんなエヴァを卒業する人々を送り出す大事な大事な最後のラインを緒方恵美ではなく神木隆之介に託すことで緒方恵美さえもエヴァの重圧から解き放ってみせた。
カラー10周年記念展に安野モヨコが寄稿、アニメ化された『おおきなカブ』の中で「おじいさん(庵野)や一緒に働く人たちがみな喜びに満ちあふれてほしいという願いを込めて」と社名の由来について語っている。
「濡れ場を演じ終えたあと優しく毛布を被せてくれるような監督の思いやりがありがたかった」とEoEのアフレコ後に述懐していた緒方恵美。時にボロボロになりながらキャラクター・碇シンジに命を吹き込むべく25年間研鑽しつづけてきたことについて異論の余地はないだろう。
パンフレット掲載のインタビューでも彼女は「死ぬまで、14歳の心を演じられる役者で居続けられたらいいなと思っています」と結んでいる。緒方恵美=14歳のシンジがエヴァを卒業する花道を飾るにはこれがベストと判断したなら見事と言うほかない。
8年という年月は新劇場版のありようも変えた。これぞエヴァのライブ感。テーマをブレさせず時代ごとのアップデートをほぼ完璧といってよいほど完遂させる肌感覚の鋭敏さ。8年の間にオタクを構成する地図もずいぶんと書き換わった。そんな今でこそ刺さってほしいという祈り。
改めて庵野はじめスタッフ全員の努力に感謝と賞賛の言葉を贈りたい。
テレビ版では拾六話が初出となる心象世界を象徴した列車だが、新劇場版では早々に序から姿を現し、主にシンジの心境を節目ごとに語る場として機能してきた。言い換えればこの列車に揺られているかぎりシンジはどこへも辿り着くことはない。
列車に乗ることを選ばずマリと二人して町へ――庵野の故郷・宇部新川の町へ飛び出すラスト。跨線橋の階段を駆け上がる二人の後ろ姿を照らす希望の光に我知らず涙が溢れたのは二度目の鑑賞時のことだった。初見は先にも言ったとおり終わりゆくエヴァへの万感の思いと「最後まで涙を流さず見届ける」という決意によって堪えきれたのだが…。
新劇場版とは
オリジナル以後ずっと公式/非公式両面から『補完』され続けてきた
「歪な、でも目を背けきれないエヴァンゲリオンというターム」
を
「きれいなエンタテイメントとして消費され終わりを迎えるヱヴァンゲリヲンという商品」
に再構築する作業なのだろうと。そういう意味でこの3+1部作は「最後にして最高のキャラクターグッズ」となるであろうと思うし、そうなって欲しい。
序の初日、『序【ネタバレ盛大に含む】』エントリで新劇場版の今後の展開について上記引用のような夢想をした。
当時確信もなくこう書いたわけではないのだが、ここまで見事に「きれいなエンタテイメントとして消費され終わりを迎えるヱヴァンゲリヲンという商品」に仕上げてくれるとは予想していなかったし、そのうえでの寂寥感がないと言ったら嘘になる。
だが、まだもうしばらく醒めない夢を見ていたかったところへアラーム音もけたたましく叩き起こされ追い出されるように劇場を後にしたEoEと比べればやはり「朝だよ。外はいい天気だよ」と優しく揺り起こされ、まどろみの中で今見ていた夢を(いつかもう一度見れるといいな…)としみじみ反芻するが如き本作の締めくくりは実に気持ちがいいものである。
公開初週ボックスオフィスは公称33億3842万2400円、観客動員数219万4533人と劇場エヴァ史上最高記録をいともたやすく塗り替えたそうだ。
感染症蔓延による諸事情を差し引いても歴代最高の興収を叩き出したQに比して1.4倍強のスタートダッシュは尋常ではない。
完結の日を待ちわびていた旧来のファンに加えて近年のAmazonプライムビデオやNetflix、または公式Youtubeでの無料配信などで新規ファン獲得に成功していたからこその数字であろう。
DVDやBDの売上以外にリクープの手段が乏しく、さらにはテレビアニメ放送枠自体の飽和で再放送の機会もほぼ失われたことで単一作品の寿命が著しく短くなっていた序~Qの公開当時を振り返ると、8年の年月は日本アニメを取り巻く環境も変えたのだと思わされる。
本作公開直前「DEATH(TRUE)2+Air/まごころを、君に」がリバイバル上映された。
初見当時京都では春エヴァも夏エヴァも小さなスクリーンでしか上映されていなかったため、この機会に最新の設備で上映されるEoEを体験しておこうとTOHOシネマズ二条へ足を運んだ。
結果、自分でも驚くほど心穏やかに鑑賞できたのは「なんてったって今は新劇があるからな…」という安心感ゆえだろう。
本作を経てエヴァを卒業し、OBとなった今EoEを見返し自分が何を思うのかが密かに楽しみである。近いうちに試したい。
…まあOBとか言いつつ今日現在で4回鑑賞済み、最低でもあと3回はリピートするつもりだからさっさと卒業しろよって感じなのだが。